東日本大震災から3年、福島、宮城の今を多くの方に知っていただこうと香港のメディア「主場新聞」を通して紹介してきましたが、3回目となる今回で最後となりました。
今回も1回目、2回目と同様、日本語訳を用意させていただきましたので、少しで多くの方に読んでいただければと思います。
1回目
>「なぜ生き残ってしまったのか」 見えない未来 過酷さ増す現状
2回目
>福島の子どもたちに笑顔を 増加する甲状腺がんと放射能被害
<3回目>

<避難所でFM放送>



今回も1回目、2回目と同様、日本語訳を用意させていただきましたので、少しで多くの方に読んでいただければと思います。
1回目
>「なぜ生き残ってしまったのか」 見えない未来 過酷さ増す現状
2回目
>福島の子どもたちに笑顔を 増加する甲状腺がんと放射能被害
「甲状腺がんおよびその疑いのある子どもは計75人」
<3回目>
原発事故を風化させない
~富岡町の「語り部」たち
福島第一原発事故によって、福島県では11市町村の人たちが故郷を追われている。一時は15万人以上が、現在でも13万人以上が県内外に避難を強いられている。そのうちのひとつが富岡町。同町には第二原発があり爆発していないものの、第一原発までは20キロ圏内だ。あの日、富岡町付近を襲った津波は21メートルを超えていた。
大震災の翌日、突然「全町避難」の指示が出た。誰もがすぐに帰宅できるだろうと、着の身着のままで車に飛び乗った。
富岡町の人口は15,000人。2500人が住む近くの川内村では全員を受け入れることができなかったため、住民は流れに従いながらあちこちに散らばっていった。そのまま帰宅できず自由も奪われ、長期にわたる避難所生活が待っているとは誰が予想していたことか。

<避難所でFM放送>
こうしたなか、郡山市内にある3000人収容可能のイベント施設「ビッグパレット」に避難した人々が、後に「避難所支援センター」を立ち上げた。富岡町、川内村の社共(※社民党と共産党のこと?)と社会協議会(※社会福祉協議会のこと?)の協力でつくられた。
避難所センターができて最初につくったのは女性専用のスペースだった。婦人団体の発案で、阪神淡路や中越の大震災で苦労した人たちからの後押しがあったのだ。女性同士で話し合える憩いの場がつくられたことで、ストレスもいくぶん緩和され徐々に状況も変わっていったという。
あるとき、支援物資のなかにポケットラジオが大量に届いた。これをヒントにセンター内でだけ受信できる臨時FM放送も立ち上げられた。ポケットラジオを片手に段ボールで作られたFMスタジオの前は毎日人だかり。笑い声が溢れるようになった。希望が生まれたところから自治が始まっていった。
<支援物資が届かない>
すべての支援活動が円滑に進んだわけではない。避難所支援センターでは当初、全国そして海外から送られてくる支援物資の整理をしていた。あまりにも多い物資にどう手をつけていいかわからない。しかも、たくさんの物資が届いても行政の動きは鈍かった。被災者支援よりも「行政の論理」が優先される現場に、しだい不満が募っていったという。


県立富岡高校元校長で、「富岡町生活復興支援 おだがいさまセンター」のアドバイザーを務める青木淑子さんは当時の様子をこう話す。
「ある時マットレスが500枚届いたんです。でも行政は配らないんですよ。なぜなら施設内には3000人近い人がいるから。全員に行き渡らないので倉庫にこっそりためておくのです」
「食べ物もそうです。賞味期限の切れたものが次々と処分されていく。期限の切れる前になぜ配布しないのかと聞くと、人数分ないからだと。おかしいですよね。そもそもこの状況下で平等という考えがおかしいと思う。全部に行き渡らないと本当に公平とはいえないのかと。一方的に決めるのではなく、避難している町民に直接相談するなりして対処してほしかった」

<「福島の今」を伝える>
富岡町民が一時避難している郡山市富田町仮設住宅に、「被災者の生活復興支援」を行う拠点として設置されたのが、前述の「おだがいさまセンター(富岡町生活復興支援センター)」だ。拠点施設でのサロン活動、情報誌「みでやっぺ!」の発行、災害FMの基地の開設、タブレット端末を使った「富岡町民電話帳」の発行など、さまざまなコミュニティ支援活動を展開している。
原発周辺は現在、5年以上戻れない帰宅困難区域、数年以内の帰還をめざす居住制限区域、早期帰還をめざす避難指示解除準備区域の3つに分類されている。現在、富田町仮設住宅には500世帯800人が先の見えない不安を抱えながら生活している。こうした現実があるということを多くの人に知ってもらおうと、同センターは「震災の語り人」事業を始めた。事故当時の様子や避難生活の実態など、生きた声を伝えようというものだ。
その「語り人」になることを決意した人がいる。遠藤友子さん、67歳。夫は震災後体調を崩し、遠藤さんは今、仮設住宅で独り暮らしの避難生活を続ける。遠藤さんは約40年にわたって繁殖牛を飼育してきた。震災直後は飼っていた牛にたっぷりと餌を与え、泣く泣く90キロ離れた郡山市に避難した。その後、富岡町の自宅に戻ると、牛たちはすでに息絶えていた。辛く、やりきれない想いでいっぱいになった。

<遠藤友子さん>

<遠藤友子さん>
「言葉を発することができない動物たちがいかに悲惨な目にあっているのか。それを見届ける私たちの辛さも知ってほしい」と遠藤さんは語る。
今では全国からだけでなく海外からも視察にきて「語り部」の話を聞く団体が増えているという。青木さんが一番印象に残っているのはフィリピン出身の大学院生の言葉だ。フィリピンには2000近い島があるが、その学生の故郷には未だ電気も水もガスも通っていない。この貧困生活を救うために、大学院で学んでいる原子力の知識が必要だと考えているがどう思うか、と投げかけられたという。
青木さんは話す。
「答えはこうだとは言い切れない。福島で起こった事実を受け止めてその後どう考えるのかはそれぞれです。一番大切なのはニュースなどの報道で間接に知るのでなく直接来て、見て、感じることです」


以上、3回にわたり、震災後の福島、宮城を伝えてきましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
今後も被災地には足を運び、取材を続けていきます。
改めて、取材にご協力くださった皆様、本当に有難うございました。
1回目
>「なぜ生き残ってしまったのか」 見えない未来 過酷さ増す現状
2回目
>福島の子どもたちに笑顔を 増加する甲状腺がんと放射能被害
1回目
>「なぜ生き残ってしまったのか」 見えない未来 過酷さ増す現状
2回目
>福島の子どもたちに笑顔を 増加する甲状腺がんと放射能被害
「甲状腺がんおよびその疑いのある子どもは計75人」